卑弥呼の里。
桜井市は、奈良盆地東南部に位置し、飛鳥以前の国の中心地として数多くの歴史遺産と大和青垣国定公園など豊かな自然環境に恵まれ、記紀万葉に語り継がれた「日本の歴史とこころのふるさと」です。
市内北部の纒向(まきむく)遺跡は、3世紀の国内最大級の集落であり、邪馬台国畿内説の最有力候補地とされ、また、初期ヤマト王権発祥の地として、我が国の生い立ちに関わる重要な遺跡であると考えられています。
穴師坐兵主神社
巻向山麓、巻向川の北側に位置する。
式内社である三社、穴師坐兵主神社、穴師大兵主神社、巻向坐若御魂神社の三社を合祀したものである。
現在の鎭座地は、もと穴師大兵主神社の鎭座地であった。
もと当社は、上下二社に分れ、弓月岳に在つた上社が穴師坐兵主神社、下社が穴師大兵主神社であつたが、応仁の頃、上社が焼失したので、これを下社に合祀した。またその頃、同じく巻向山中に在つた巻向坐若御魂神社も下社に合祀せられた。すなはち穴師大兵主神社に合祀せられたのである。
応神以降の渡来の帰化人がその居住地に鎮祭したものか。
中世神宮寺(眞言宗)があつて社僧がいたが、近世に入り衰亡した。
右社 若御魂神 で巻向坐若御魂神社の祭神である
中殿 兵主神 で穴師坐兵主神社
左社 大兵主神 で穴師大兵主神社の祭神である
[穴師坐兵主神社]元は弓月岳にあったが、この弓月岳は一体どの山か、竜王山、穴師山、巻向山の説があるとのこと。
[巻向坐若御魂神社]中世、社殿荒廃。穴師上社ともに、山麓穴師大兵主神社(穴師下社、今の穴師坐兵主神社)へ合祀せられて現在におよぶ。旧社は明らかでない。
穴師 相撲神社。
穴師坐兵主神社の一の鳥居の近くに、日本の国技である相撲の発祥の地と伝えられる相撲神社がある。ここは、大兵主神社神域内の小字カタヤケシと呼ばれる場所で、参道脇の広場が相撲神社の境内になっている。境内の入口に小さな鳥居があり、その奥の広場中央に4本の細い桜の木に囲まれた空間がある。その空間が土俵であり、4本の桜は土俵の4隅の柱のつもりだろう。広場の左手奥には、今にも崩れそうな小さい祠が雑木で囲われてポツンと建っている。野見宿禰(のみのすくね)を祀る社である。
『日本書紀』は第11代垂仁天皇7年のこととして、次のような逸話を伝えている。その頃、當麻邑に當麻蹶速(たいまのけはや)という力自慢がいて、何とかして強力な者と命がけで力比べをしたいと言っていた。そのことを聞いた天皇は、當麻蹶速に勝る者を探させた。そして見つけだしたのが出雲の国の野見宿禰である。早速二人による我が国初の天覧相撲がこの地で催された。試合の結果は野見宿禰の圧勝に終わった。當麻蹶速のあばら骨を踏み砕き、腰を踏みくじいて殺してしまった。天皇は當麻蹶速の土地を没収して、野見宿禰に与えられた。野見宿禰はそのままとどまって天皇に仕えたという。だが、この説話は、この辺りの腰折田(山裾の折れ曲がった田)の語源説話のような気がする。この「カタヤケシ」に、かつての大横綱の大鵬と柏戸がやって来て、土俵入りをしたことある。